アガリスクエンターテイメントの歴史を振り返るに、いくつかのタームに分けることができる。その大きなものの一つが、本格的に東京の小劇場シーンに足を踏み入れたタイミングだと考えている。公演でいうと『みんなのへや/無縁バター』のあたりからだ。
それまでの千葉時代(地質学年代ではない)一緒にやってきたメンバーが次々にいなくなったタイミングでもあり、だから客演を外部に求めたりしたのもこのとき。
「それなりに尖ったそれなりにポップでそれなりにウケるコメディ」ではあったんだろう、それを観て一緒にやりたい、やりましょうと言ってくれたのが、当時まだ学生だった沈だった。
それから劇団員になり、色々あって、本当に色々あったな、沈は辞めていく。
共にガムシャラにやってきた歴史があって、今のアガリスクがある。間違いなく戦友のひとりだ。
正直に言うけどおれのなかでは円満とは言い難い(ていうか円満なんてクソ喰らえ!)が、そもそも道を違えるとはそういうものだとも思う。何年も一緒に、同じ集団で同じ作品を作ってときには同じ夢を見た人間と、きれいに笑って別れられる分別を、残念ながらおれは持っていない。ごめんなさい。
穴は大きい。傷は深い。でも「辞める」というのが沈の決断なら、最後には(それがたとえ引き攣ったものでも)笑顔で送り出したい、とは思う。無理そうだけど少なくともそう思えるようには、なった、と思う。
ライフ・マスト・ゴー・オン。
何があろうが、アガリスクエンターテイメントが劇団であり続ける以上、その身に降りかかるすべてのものについて、我々はその姿勢となにより作品で答えを出していかなければならない。誰が離れようと、何を失おうと、それは変わらない。揺るがない。変えない。
櫛の歯が抜けるように、ひとりひとり一緒に走っていた人間が去っていく。今までもそうだったし、だからこれからもそうなんだと思う。あまりに淋しいし、ただただ哀しい。
でも「続ける」って、そういうものなんだと思う。たぶんそれは「見送る」と同じ意味なんだ。誰かと並走し続けることのほうが奇跡だから。その奇跡みたいな時間を永遠にするためには、矛盾しているかもしれないけど走り続けるしかないんだ。自転車は漕ぎ続ければ倒れない。それを信じるしかない。それは今後も変わらない。
あえてカッコつけて言っておく。
おれは続けているんじゃない。「続ける」という決断をし続けているんだ。今この瞬間も。
お互いの決断に幸多からんことを。引き攣った笑顔でも、これは正直にそうで。
そして走り続けていれば、少なくとも可能性は。
それを理由にするのは、やはりメランコリック過ぎるんだろうか?
お互いが今後行くであろう、曲がりくねった道がどこかで交差することを、やっぱりどこかで願っている。情けないことに。
「決してない」なんて、決してない。何度でも言ってやる。